城南鉄道•城南延長鉄道
概要
明治期の私設鉄道ブームのなかで、同時期に計画されていた千駄ヶ谷〜世田谷〜小田原間の武相中央鉄道と接続すべく、ニノ橋〜広尾〜渋谷〜世田谷間で計画された。その後は追加で八王子・国分寺方面への延長も計画している。しかし計画がなかなか進まなかったため、広尾以北の計画は取り止められ、以南の敷設免許は現在の東横線や東急多摩川線に当たる路線などを計画していた武蔵電気鉄道へ渡る。東横線の開業後は同社の未開業区間や新規計画路線と合わせて東横線都心延伸計画の一部となるが、最終的に市内交通一丸化を掲げる東京市の反対に遭い、認可から40年弱の時を経て敷設免許が失効してしまう。
路線図
歴史
1896年9月に甲田良造らが発起人となってニノ橋〜渋谷〜世田谷間の軽便鉄道敷設免許を申請し、98年10月に認可を受けた。さらに1900年12月には世田谷から北進し八王子および国分寺を目指す城南延長鉄道も出願されているが、こちらは03年12月に却下されている。しかし08年3月に武相中央鉄道の免許が失効し接続線がなくなったことや、株主の整理などの手続きに時間を要したことなどから、なかなか着工できなかった。一方そのころ現在の広尾〜扇橋(横浜)間などを計画していた武蔵電気鉄道は将来の都心乗り入れに向けて敷設免許を欲していた。そこで城南鉄道は12年10月に同社への免許譲渡を申請し、13年2月に認可されたことで解散した。この際に不要となった広尾以北の免許は12年12月付けで失効している。同年4月には武蔵電鉄が二ノ橋〜赤羽河岸間のニノ橋延長線を出願するも13年3月に却下されている。
しかし同社は第一次世界大戦による物価高騰により建設資金が確保できず、私設鉄道法による厳しい制約から逃れるために軽便鉄道へ規格を変更しようとした申請も却下され、度重なる竣工期限延長もついに認められなくなったため、17年5月付けで敷設免許が失効した。しかし城南鉄道から譲受した免許のみ期限が翌月まであったため、失効予定日の前日にその延長線として武蔵電鉄の計画路線を再出願し、10月に認可を得た。新規出願と既存免許の延長では認可の敷居に大きな差があるため、結果として旧城南鉄道の計画が東横線や東急多摩川線の救世主となった。ただしこれは事前の交渉で鉄道省側から妥協策として提示されていたことであった。この際に本線の区間は渋谷〜祐天寺〜高島町間となり、城南線は武蔵電鉄が同時に申請した祐天寺〜広尾間の計画とともに都心方面の支線という扱いになる。
その後は23年に再度の免許が失効するも再申請し、田園都市株式会社の資金援助の受けた武蔵電気鉄道改め東京横浜電鉄は28年5月までに本線を全通させる。しかし城南線はなかなか着工できないまま推移し、その間に東京市は市内交通一丸化を目指すとして私鉄による山手線の内側への乗り入れを阻止するようになった。本計画も32年の竣工期限延長申請時に東京市長が反対し、34年には東京府知事から鉄道大臣へ計画反対を唱える副問書が提出されたことで、鉄道省から免許返納を求められ失効した。この際に東京府は反対理由として用地買収の困難さ、市営地下鉄計画との競合、路面電車としか接続できないニノ橋の立地の悪さを挙げている。なお東横電鉄は24年に失効した渋谷〜有楽町間の免許に代わり、29年5月にニノ橋〜東京間を申請していたが、こちらも35年10月に却下されている。なお東京急行電鉄は戦後にも都心方面の路線をいくつか計画しているが、いずれも渋谷や目黒からの計画で、本計画を受け継ぐものではない。
ルート案
起点の由来となったニノ橋は古川を跨ぐ橋で、現在の麻布十番駅の100m南に位置する。そこから一度南下して現在の白金高輪駅の300m西に位置する古川橋付近で北へ角度を変える。その後は明治通りの北側を通り、広尾病院などがある天現寺橋付近に設置予定であった広尾駅に至る。現在でこそバスしか通っていないこの地であるが、当時は東京鉄道(後の東京市電・都電)のターミナル駅が置かれており、交通の要所であった。そこから先は現在の渋谷駅を通り、池尻、太子堂、若林と現在の世田谷線に近いルートを経由して終点の世田谷に向かう予定であった。
途中駅
参考文献
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