池上電気鉄道新奥沢線•国分寺線


池上電気鉄道新奥沢線および国分寺線とは現在の東急池上線の前身である池上電気鉄道が雪ケ谷~新奥沢間で営業していた廃線および新奥沢~国分寺間の未成線である。
訪問日: 2025年9月21日

概要

1922年に蒲田~雪ヶ谷(現・雪が谷大塚)を開業させた池上電気鉄道は、大崎広小路への延伸を目前に控えた27年3月に、東京横浜電鉄(現・東横線)と池上本門寺の間の連絡を図るとして、調布(田園調布)~雪ヶ谷(雪が谷大塚)間を計画する。さらに同年4月には近隣で玉電系の目黒玉川電気鉄道が敷設免許を獲得したのに対抗する形で調布(田園調布)~国分寺間も計画する。これには後藤国彦専務が京王の取締役を兼ねていたことも関係すると考えられている。しかし同時期にライバル会社の目黒蒲田電鉄も並行する二子玉川線(後に大井町線として開業)を計画しており、必要な土地を目蒲側に押さえられてしまった。結局雪ヶ谷〜新奥沢間しか開業させられず、資金難に陥った池上電鉄は目蒲電鉄に買収され、開業区間もわずか1年ほどで廃止された。

ルートマップ

全区間の計画ルート
雪ヶ谷~新奥沢間のルート

歴史

玉川地区を縦断する路線の計画の始まりは目黒蒲田電鉄が1924年7月に出願した奥沢~瀬田河原(二子玉川)間の二子玉川線である。これに続き26年4月16日に玉川電気鉄道の子会社である目黒玉川電気鉄道が目黒~清水~玉川(二子玉川)間を、同年4月16日には南郊高速度電鉄が渋谷~玉川間の計画の支線として奥沢~下野毛間を、そして27年3月に池上電気鉄道が本路線の雪ヶ谷(雪が谷大塚)~調布(新奥沢)間の1.6kmを、6月4日に調布(新奥沢)~国分寺間の20.9kmを申請する。これらの計画のうち目黒玉川電鉄は27年に4月に、池上電鉄は12月16日に、目蒲電鉄は2月27日に免許を獲得したが、南郊高速は 10月19日に却下される。

この時点で3社の計画が競合していた。しかし目蒲電鉄は系列の田園都市株式会社が田園調布や玉川地区で住宅地開発を行っていたため、付近を通過する本計画を脅威と捉え、玉川全円耕地整理組合と協議し28年夏までに周辺一帯の土地の全てを押さえてしまった。これによりひとまず10月5日に雪ヶ谷~新奥沢間の1.6kmを新奥沢線として開業させるものの、以北の延伸は不可能となった。その後は資本力の弱さも相まって計画を進められず、30年6月23日に免許は失効し、新奥沢線は盲腸線となった。一方の目蒲電鉄二子玉川線は起点を奥沢から大岡山に変更した上で29年12月25日までに全通し、大井町線に編入された。

そのような中で同社は、利用者数の伸び悩みや目蒲電鉄との過当競争、さらには昭和恐慌の影響も受けて借入金の利払いすら不可能となる。こうした状況でも白金線などの新線建設を進めようとする経営陣に対し母体の川崎財閥が不信感を募らせ、目蒲電鉄の五藤慶太の求めに応じて株式を売却することとなる。そして33年7月に臨時株主総会で池上電鉄の旧経営陣が追い出され、10月に同社は目蒲電鉄に吸収合併される。その後も新奥沢線は営業を続けたが、東横線や目蒲線との接続が行えていなかったことや、新奥沢駅が奥沢の中心部から離れていたこともあり、付近にあった調布女学校の学生くらいしか利用客がいなかった。そのため業績不振となり35年11月5日に廃止される。なお同年8月22日には目黒玉川電鉄の敷設免許が失効しており、会社もそのまま解散となった。これは目黒競馬場の移転問題や都市計画との競合により用地買収が進まなかったためである。

1924年: 目黒蒲田電気鉄道が奥沢~瀬田河原間(現・東急大井町線)の敷設免許を出願
1926年: 目黒玉川電気鉄道が目黒~玉川間の敷設免許を出願
同年: 南郊高速度電鉄が奥沢~下野毛間の敷設免許を出願
1927年: 池上電気鉄道が雪ヶ谷~調布間の敷設免許を出願
同年: 目黒玉川電気鉄道が目黒~清水~玉川間の敷設免許を出願
同年: 南郊高速度電鉄を除く各社へ敷設免許が下りる
1928年: 池上電気鉄道新奥沢線の雪ヶ谷~新奥沢間が全区間複線で開業
1929年: 目黒蒲田電鉄二子玉川線の自由ケ丘~二子玉川間が開業
同年: 同社の大岡山~自由が丘間が開業し大井町線が全通
時期不明: 新奥沢線が単線化される
1930年: 新奥沢~国分寺間の敷設免許が失効
1933年: 合併に伴い目黒蒲田電鉄の路線となる
1935年: 開業区間が廃線となる
同年: 目黒玉川電気鉄道の計画が失効

ルートと路線跡地

開業区間は当初全線複線であったが業績不振により単線化されている。

雪が谷大塚駅の池上方から分岐し、90°北西にカーブした直後の直線上に相対式2面2線の諏訪分駅があった。諏訪分駅から新奥沢駅の手前までの線路敷は道路に転用されており、諏訪分駅があった場所は不自然に曲がっている。駅の目の前には田園調布学園がある。

雪が谷大塚方から望む諏訪分駅跡
新奥沢方から望む諏訪分駅跡

そこから直進し、補助126号線との交点の位置に1面1線の新奥沢駅があった。ホームに上屋はなかったが、駅舎や駅前広場があり、単線化後に2面2線化もなされている。跡地は現在マンションの駐車場となっており、新奥沢駅跡を示す記念碑がひっそりと立っている。

新奥沢駅跡
駅跡を示す記念碑

新奥沢駅から先の未成区間は奥沢付近で東横線と立体交差し、成城・和泉を経て国分寺へ向かう予定であった。

途中駅

開業区間
雪ヶ谷(現•雪が谷大塚)-諏訪分-新奥沢
未開業区間の経由地(途中駅未定)
新奥沢(調布)-成城-和泉-国分寺

参考サイト

東京急行電鉄 『東京急行電鉄50年史』, 1973, pp.121-124, https://www.tokyu.co.jp/history/history_50/pdf/06_tokyu50th_jyujitsu.pdf, 2025/9/16アクセス
森口誠之 『鉄道未成線を歩く<私鉄編>』, JTB, 2001, pp.54-58
中村健治 『東京消えた!鉄道計画』, イカロス出版, 2017, pp.54-56, 182-186
中村健治 『東京消えた!全97駅』, イカロス出版, 2015, pp.167-170
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